2010年04月07日

那覇市国保課の某医療マッサージ業者告訴問題

 4月1日沖縄タイムスに
 某マッサージ業者が那覇市に対して多額の治療費の不正請求をし受領した事が判明、既に県警に告訴され受理されたとの報道。詐欺してえた金額が1億以上だと言う。この報道には衝撃を受けた。

 こんなに多額の詐欺が短期間(1会計年度)でおこなわれていたとは想定外。従来、国の療養費ばらいによる取り扱いは制度上の壁が大きく、県内のマッサージ業者は使用してなかったのが多数だのに、どういう方法で詐取したのか驚かされる。医療制度のシステムの不備、無資格者営業も指摘されている。

 この事件は告訴され受理されたのでいずれ裁判で真相が解明されるのではないか。残念な疑惑事件だある。  

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2010年04月03日

衝撃的な記事、某業者の不正請求事件

 昨日、本日(4月2日)新聞朝刊に那覇市から某マッサージ業者を治療費を不正請求したとの件で
警察に告訴したとの記事が目についた。どういう内容なのか関心をもって読んでみた。
 治療院だのに 治療よりも もうけることに 専念していたのではないかと思われる。
従来、指圧マッサージ治療費を国の保険システムを利用する道はきわめてむつかしい
ので多くの治療院、治療師は利用していないのが現状である。にもかかわらず、どのような
方法で役所をだまして請求したのであろうか。不思議でならない。
今回の事件はまじめに日々施術している治療院にとって 迷惑な話である。反省すべき。  

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2010年04月03日

新規施設での営業開始はじまる

 2010年4月1日 新規大型施設(ホテル)が開業した。
その施設で突然指圧マッサージ営業をすることになり、急いで準備し万全の態勢を整えた。
 場所は宜野湾市、東シナ海も一望できるロケーションだ。やはりビーチもすぐ近くに
あるから夏にはもっと人気がでてくるだろう。今後に期待したい。
  
   

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2009年01月26日

2009年アフリカ系黒人のオバマ大統領就任の政策は!

アメリカ大統領就任式をテレビでみたが、200万人以上の人たちが寒い中ものすごい歓声で歓迎された。一カ所にこんなに多くの人たちを集めるオバマはきっとすばらしい人物にちがいないと思う。彼の政策で世界は大きな変化するのであろう。しかし、イラク戦争等で莫大な戦費:(国債発行)をアメリカはどうやって解消できるのであろうか。今年は 地獄 のはじまりではなかろうか。社会が安定するには5-10年間はきびしいのではないか。  

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2008年10月07日

一歩のゆるやかな試み・部屋の改造

現在も部屋の改装中。完成まではまだ先の話です。
仕事の合間に取り組んでいるため。あせらず気長に気持ちを持つことが
必要です。
 部屋の改装の設計図はなく、現場に応じて工作していますが取り組んだ時間だけいい成果が得られ、自分なりに納得しています。
 広々した空間に仕切りを3け所作り、ペンキで塗装したら 清潔な明るい空間になり、気持ちがいいですね。
 屋上にも鉄パイプで小屋を作り、長かった今年の夏の暑さを防ぐ省エネ(電気代の節約)に貢献したのではないか。那覇の夜空をながめる
のも玉にはにはいいですね。ではまた、、、。
 2008.10.7   

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2008年07月02日

昼間の庭の草刈り

 2008年7月2日現在 短かった今年の梅雨も終わり、既に真夏の日々。昼間の暑さは大変、外で草刈りした。
紫外線強烈。夕方から草刈りすればよかったと反省。でも、庭の雑草の伸びは早い。早めに刈り取りしなければ
家は幽霊やしきようになり、環境にわるいく、美観を損なうことになりかねない。
 きれいに草刈りしてもまた3け月したら、同様に草刈りしなければならない。これのくりかえしだ。気長にみるしかない。  

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2007年12月22日

母校・開南小学校の統廃合問題

 12月 那覇市中心地にある開南小学校の統廃合問題がもちあがったが、
即座に反対の声が強まり 提唱した那覇市長は 議論のすえ まもなく統廃合しないと見解を表明し、騒動はおさまた。
 統廃合されず、現状が維持できて とりあえず よかったといえる。

   

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2007年11月02日

外人住宅の改装中・・・

 今年8月初旬から古い外人住宅(敷地80坪)を改装しているところです。大変な作業で手間暇かかります。
まだ、ひとりでの素人工事の途中で完成はまだ先の話になりそうです。
 最初の取り組みは 水道管の配管問題。破損していた。そこで鉄製の水道パイプから塩ビ管に変更し配管しました。塩ビ管の工事ははじめてでしたが、素人でも意外と簡単でした。次はトイレ、洗面台の点検。新しいパイプを取り付けて解決しました。
 次の課題は屋上の防水工事でした。大雨が降るたびに雨漏りしていましたが、防水セメントを流入した結果、雨漏りしなくなりました。家の壁を白いペンキぬりしたので、全くみちがえるように きれいにみえます。
 後は内部の改装に入ります。今年いっぱいで終えたら、、、と希望しています。
 
  
タグ :DIY

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2007年06月18日

試み:溶接、電気配線のしかた

DIYとして鉄パイプの溶接の仕方や家庭内の電気配線の安全な仕方について、
これから取り組みたいと思っているが、
どこでそれらの情報を入手できるか まだてさぐりの状態にある。

 これまで洗濯乾し場や物置部屋造りなどに取り組んだ。
 主に鉄パイプを駆使しクランプで連結して作業し完成させたが、
溶接すれば、スマートにみばえのいいのができるのではないかと欲がでてきた。
溶接技術を学びたいと考えているところ。ホームセンターで溶接機が売られているが
果たして購入しても安全に使えるのか、つい考えてしまう。

 また、溶接する場合には200ボルト必要なので溶接機から取り付けする安全な方法を
学びたい。コンセントの増設や屋内配線の安全な方法を学びたいと考えています。
 既に家庭用の水道回りの処理について素人ながら、チャレンジし成功した。

 身の回りのことについては できるだけ自分のちからでこなせたら いいのではないか。
これから、いろいろチャレンジしていきたい。

  

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2007年06月07日

素人工事(車庫)の試み

2007年 6月初旬の工事状況 
挑戦したのは狭い駐車場(普通乗用車1台のスペース)の中の屋根づくり。
 今回専門業者に頼まないで自力で実践してみた。
 車駐車したときに、濡れないで乗り降りできるようにしようということで
取り組んでみた。駐車場の側のコンクリート壁に鉄パイプを3本アンカーボルトで打ち込み
固定しそのパイプの上に長い2本の鉄パイプを乗せ、最後にベニヤで屋根を作った。
 その後、水性のペンキ(紫色)を塗り完成させた。約4日間の工事であった。

 無事完成したときは、うれしかったですね。自分の身の回りの工事はできるだけ自分でするのも
楽しいものだと実感した。今後ともやるべき工事が多い。気長にとりくんでいきたい。
   

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2007年03月12日

部屋の修理中

 大工仕事に終われる日々です。
 昨年暮れから 部屋の工事に入り、このぶろぐ書く余裕がありませんが、時々 時間見つけて記載しようと思っているところです。しかし、平成18年度の確定申告書も提出しないといけませんので、余裕が出てくるのは3月15日以後になりそうだす。
 また車検も今月で切れるのでその対策も急がねばなりません。
 昨年工事でできたことは不可能と思われたいた2ケところのドアの鍵を新規に取り付けたこと。また、水道がらんを新規にとりかえたこと、さらに部屋の壁に化粧ベニヤをとりつけたことが成果です。自分で工事するのは手間隙かかります。でも、自分でやるしかありません。ですから、大変です。
 今年も貧乏暇なしか。大工仕事に終始しそうです。本来の指圧業務と同時並行してやります。  

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2006年12月30日

来年に期待

 今年もあと1日で終わる、来年もすばらしい日々であってほしい。実際はその日が終わらないと評価できない。どういう時代になるのでであろうか。

 かつて沖縄から 世界がみえる と思っていたが、最近は悲観的なイメージが多いように思える。
厳しい局面に遭遇しても、今から無事乗り切る術を勉強しよう。
 来年はブログを気楽に記述してみたい。まだ、途中の記録だから、、、。

 では お互い健康に留意し、長生きしましょう。
  

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2006年12月24日

熱弁をふるう老人の主張大会

 私は 仕事の合間に時間が許す限り、 頑張る老人たちの活動を記録しようと努めてきた。
 
 さて、今回紹介するのは今から19年前の話。1988年1月20日財団法人沖縄県老人クラブ連合会主催の「第8回老人の主張大会」が名護市の北部会館で開催された。そこで 県老人の主張大会の模様 をホームビデオで撮影、記録し、そのテープを発表者に無償で進呈した。

 毎年のことだが会場は聴衆の高齢者たちで 立ち見もでるほど 埋め尽くされ熱気ムンムンの中ではじまった。超人気イベントだ。

 今回の発表者の発表する態度、弁論の論旨、ことばづかい どれひとつとってもすばらしい内容であった。各地区から選抜された老人の主張を聞くと、見応えあり、聞き応え十分であり、とてもおもしろい。ひとりの発表時間は5分ぐらい、殆どの老人は原稿なしで 一気に熱弁をふるうのである。

 今回の優勝者は那覇市老連が推挙した名嘉地用挙老人だった。演題は「出会い触れあいを大切に」で熱弁をふるい、大きな拍手喝采をうけた。

 金城宏吉会長から表彰状と優勝トロフィーが手渡された。優勝した名嘉地用挙さんは「今回の大会に向けて、 毎日何時間も自宅で繰り返し練習した。原稿をすべて覚えてしまった」とおはなしされていました。大変な努力家であったわけだ。

 主催者を代表して金城会長は今回の発表者の弁論を終えたあと、「各弁士に感謝を述べられ、(本土のひとから)沖縄の人は 標準語がうまい とよくいわれる。」と講評したのであった。終了後、私は弁士全員と役員の全体写真を撮影し、会長と沖老連に無償進呈した。

  ところで金城宏吉会長は ことばづかいがすごく丁寧だった。あとで知ったのだが、若いときは県立第二高等女学校の国語の教諭をなさり、戦後、県立小禄高等学校の校長などを歴任した教育者だったのであった。

 余談だが、県立第二高女と言えばひめゆり学徒と同じくさる大戦時において兵隊(陸軍病院看護教育隊)に徴集された学徒生で 白梅の学徒兵(多くの女学生が犠牲になり、死亡した) として知られているが、その当時先頭に立っていた人が金城先生だったという。

 戦前、那覇市松尾山にあった校舎は、米軍の10月10日の空襲で焼けたそうだ。戦後、糸満に白梅の搭が建立されたがその敷地に金城宏吉先生の読んだ石碑がたっているという。 

 そういえば、ある年、ある日、那覇市の台湾飯店でときどき食事をいただいたことがあったが、当時の又吉康林会長と副会長だった金城先生は中がとてもよかった。

 席上、金城先生曰く「戦争時にそばにいた友人は敵弾を受け死亡したが私は運良く生きた、命拾いした体験など」をお話しておられたことを私は昨日のように想い出すことがある。  

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2006年12月22日

中城村老人会長の意気込み

 私の出会った老人の中で 情熱的なパワーの持ち主が中城村老連会長だ。
 昭和52年中城村添石バス停側に 中城村老人福祉センター が建設された。

 その建設に大きく貢献したお一人に当時の村老連比嘉松顕会長がおられた。彼は村内の老人福祉の基礎を作り上げ発展させた老人であった。

  同時にその敷地内に先のアジア太平洋戦争の沖縄戦で犠牲になった人たちの慰霊塔も建立された。私はこれまで老人センター建設と慰霊塔が同時に建設されるのをみたことがなかったが、戦争を生き延びた老人には老人の憩いの場と慰霊塔建立は長年の課題であり願いだった。

 この老人センターは老人たちの寄付金と地元住民、企業等の寄付金で建設されたがその建設に至るまでの苦労は大変なものがあったにちがいない。
 
 そして、建設された直後、初めてここで村老連の年1回の通常総会が開かれ、比嘉会長は老人センター完成と慰霊塔建立の報告を述べ、同時に会長職を辞めることになったこと
 また次の新しい会長儀間仁徳先生に無事バトンタッチしたことをつげられたのだった。

 私は老人クラブの部外者であったが、活躍する老人を記録して残しておきたかったので、記念に総会の模様をカセットテープに録音した。時々テープを聞くと元気な比嘉会長の声が聞こえる。勇気づけられるのである。

 老人みずから、率先してりっぱなセンターをつくるという快挙を成し遂げた中城村の老人の方々の意気込みに私は勇気づけられた。

 振り返ってみると 末端の字老人クラブをまとめあげ、上のクラスの連合会を結成し、まとめあげるのは大変な苦労があるがそれを成し遂げた初代会長比嘉会長はやはり偉かったと思う。

 また、次の儀間仁徳会長も仁徳の高い老人でその後中部地区老連会長、更に県老連副会長に就任し、沖縄の老人福祉の向上に貢献したのであった。

 中城といえば15世の戦国時代に活躍した戦国武将護佐丸が有名、その精神を引き継いでいるようにみえる老人たち。老人センターの上の方に護佐丸の古い亀甲墓(沖縄で最も古い墓)がある。

 地元伊舎堂出身の比嘉松顕会長の老人センター建設にかける意気込みはすごかった。私は圧倒されたことを時々想い出す。また、正顕会長は自宅で栽培がむつかしい蘭を栽培する 蘭の愛好家でもあった。威厳があり、やさしい老人であった。比嘉会長に幸いにも私はかわいがってもらった。

 地方にもすばらしい老人たちが活躍していたを忘れてはいけないと思う。老人に感謝である。  

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2006年12月21日

お得な健康医療情報です。

 健康に関するお得な情報です。既にご利用なさった方もいらしゃることだとおもいますが、一度もご利用なさってない方には朗報です。

 それは那覇市国民健康保険による指圧マッサージ等施術への助成事業についてです。

 さて、那覇市は昭和64年6月から県内では初めて指圧マッサージ等の施術に対する補助事業をはじめています。
 ただし、現在国保加入者が対象です。1回の施術に対して800円の利用券を発行しています。那覇市当局が指定している指圧マッサージ等治療院で利用できます。
詳細は本庁国保課まで。

 この事業は 国保の保険施設事業 の一環で取り組まれた事業です。
 要するに那覇市民が健康であれば、地域は元気になる、また、増大が予想される医療費の節減につながるのではないかと考えたのであります。

 高齢者に多い、特に末梢神経系(神経痛など)の医療支出は大きい。その症状緩和に東洋医療は役立つのではないか、その技術を行政当局が取り入れたのであります。

 当時の那覇市長、親泊康晴市長の英断で実現した政策。そして、この事業創設に向けて組織的に取り組んだのが那覇市保険鍼灸あん摩マッサージ指圧師協会(会長宮城勝次郎)であった。

 後日機会をみつけ、なぜ成功したか。那覇市国保補助事業の取り組み等をお知らせできたらと思います。  

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2006年12月19日

伊平屋、伊是名島への無料指圧の旅

 離島への老人への無料指圧奉仕の話。
 昭和61年。夏。私は指圧療法の普及と離島への旅をかねて 初めて伊平屋島と隣の伊是名島に出かけた。

 それらの島を選んだ理由は、私はかつて沖縄県北部地区老人クラブ連合会にお世話になったことがあったので その恩返しのひとつとして 取り組んでみた。その傘下の離島の老人クラブの老人たちの健康づくりに少しでも私の指圧術がお役に立てればと思った。
 
 もうひとつの理由はその地域から琉球国王第二尚氏の始祖 尚円王 が生まれた所だと聞いていたので、どんなところなのか 見てみたいと思ったから。

 車を本部港に駐車して、カーフェリーで伊平屋島の前泊港に到着。港近くの民宿に荷物を置くとまもなく、あらかじめ連絡してあった地元の老人クラブ会長がこられ、さっそく近くの公民館に行く。その公民館には既に20名ぐらいの老人たちが待っていた。

 老人会長から私の自己紹介があり、その後、指圧マッサージによる健康づくりと題して、前半は講演、後半は実際の指圧治療に入る。

 老人の関心事項は、慢性化した自分の症状を治してもらうか であった。めだったのは膝関節痛、座骨神経痛など神経系疾患であった。某おばーさんによると 「子ども十人も生んで更に牛馬のようにたくさん働いたから、いまごろになって ガタがきている、膝の痛みに悩まされている」という。

 昔は子ども生んでもすぐ働き、休養とる環境がなかったという、女性には過酷な環境だったようだ。
 早速、膝関節痛のツボ指圧治療をおこなう。施術後、あばーさんは歩いて見せた。膝が痛くない、足取りが軽くなった と喜んだ。その後も二十名ぐらいの老人の施術を行い、喜ばれた。

 ひとつの公民館での講演が終えると、すでに隣の老人クラブの会長が迎えに来られ、次の公民館で同様な講演と実技を実施したのであった。
 
 翌日も三ヶ所の公民館を廻った。朝十時から夕方七時まで休むことなく指圧治療したのだあった。夜、宿泊している民宿に 数名の悩める老人がこられ、是非治療してくれ といわれ、更に遅くまで施術した。
 その後、伊平屋の野甫岬から、地元の一隻のくり船を借りて約15分かかって 伊是名島の内花という海辺に無事ついたのであった。
 
 すでに地元の老人クラブの関係者が出迎えにきてくれており、その人たちの用意した車で仲田港近くの民宿に行き、荷物を下ろした。
 そこに既に伊是名仲田の老人クラブ会長が出迎えにきており、早速 公民館で講演と実技を実施した。その地域の老人の症状も慢性症状が多かった。

 ひとりひとり症状をお聞きし、丁寧に施術した。施術後、老人から 痛みがとれた、ありがとう といわれた時は 離島にきてよかった と思った。今回、現地に行き、直接老人からさまざまな声を聞くことができたのは 私にとって大きな収穫であった。

 しかし、帰りの船がでる直前まで、おしかけてきた老人たちの施術におわれ、私の指も使いすぎて、バネ指になっていた。連日の施術で 体も疲れたが 気持ちはよかった。

 もうひとつの関心事であった 尚円王のお墓まで、行く時間がなく、帰路についた。次回の課題になった。その後、離島の渡名喜村、渡嘉敷村、宮古上野村、下地町の老人クラブをまわったのであった。  

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2006年12月17日

伊祖のトンネルと新屋敷先生の話

  私が沖縄市山里の元外人住宅に住んでいた頃の話。
  ある年、ある日、いつものように私は那覇の勤務先に車で向かっていた所、バス停に向かって歩いている老人が見えた。

  その人(沖縄大学学長、新屋敷幸繁先生)は近所の人だったので、私は車を止めて声をかけた。「那覇の職場に行くところだ」と返事が返ってきた。

  私が「行き先が同じ方向ですから、もしよろしかったら、送りましょうか」と言ったら、「では、のせてもらおうか」と言い、車を走らせた。途中、いろいろとお話をなさる老人であった。

  宜野湾市、浦添市に入り、伊祖のメガネトンネルが見えてきたら、「そのトンネルは私が造らせた。その当時、私は県文保委委員長していたときに、そこに貴重な貝塚があったから、政府に働きかけて トンネルにしたのだ」と淡々とお話なさるのであった。

  そのとき、私は初めて 貝塚を守るために伊祖のトンネルが創られたと知り、感心した。

  しかし、このトンネルの話も新屋敷先生の功績をひとつで、同様に恩納村仲泊貝塚を保護する為に、貝塚のある仲泊一帯の58号線を迂回させて建設させたという。政府の当初の計画では58号線は一直線に道を創る予定だったが、現在のように変更させたとのこと。

 今では両地域とも貝塚が保存され、地域住民や観光客が訪れる名所旧跡になっている。政府の計画を変更させる力のある人がいたとは驚きであった。新屋敷先生は大変偉い人だったのである。
 また、細い愛用の杖をもって、中国の万里の長城を歩いてきた と楽しかった旅のお話をなさっていた。

 また、昔鹿児島県で教鞭をとったことがあるが、山中さだはる長官は自分の教え子だといい、沖縄に彼が来るときには会いに来るとか云々、話は尽きない。そうこうしているうちに、沖縄大学に無事到着し、おろして自分の治療院にもどったのである。

  その後、新屋敷先生は宜野座高校、鹿児島県の旧制某中学校の校歌の作詞者だったことを知り、大変な偉い人だったなぁと尊敬した次第である。

  もうひとつ印象に残っているのは、沖縄が日本に復帰した1972年当時、沖縄大学の存続、統廃合が大きな社会問題になったときに、学長を務めていたのが新屋敷幸繁先生。与儀公園で沖大存続県民集会を開くなど相当頑張り、無事大学を今のように存続させたのであった。 

  新屋敷先生は沖縄の歴史物語の本を書いたり、詩人でもあり、いろんなジャルの持ち主で、豪快な人物だった。高名な学者の新屋敷老人は学者特有の独善的な傾向はなく、地元の老人クラブの敬老会にも参加されご挨拶を述べられるなど地域の一員としても関わっておられた。風貌も仙人のような老人であった。
 
  余談だが、当時私の住宅のそばには米軍施設で金網がはりめぐらされ、常時鎖で閉鎖されたがあった。

 以前、その門を通過した日本の首相がいたという。聞くところによると、佐藤栄作首相が来沖したときに宿泊地の那覇でデモ隊に抗議され缶詰状態になったことがあり、そのとき米軍のヘリコプターに救出され、中部の米軍基地に到着し、用事を済ませ、帰るときにここの門をくぐって行ったそうだ。一国の総理大臣がである、、、。
 そこに当時住んでいた人はだれでも知っているとのことだった。

 幸繁先生の息子に かの有名な琉球放送、RBCの名キャスター 新屋敷二幸氏 が おられた。

  これも余談だが毎年 慰霊の日 が近づいてくると、テレビは沖縄戦に関わる特番を組み、新鮮な情報を提供していた。

 ある年の6月 RBCテレビは[遅すぎた聖断、、」(正式な題名は忘れたが、、)を放映した。その番組は沖縄人に大きな反響を巻き起こした。

 その番組は詳細な資料に基づき組み立てられていた。番組の詳細なことは忘れたが、戦争末期、日本はアメリカとの戦争に負けているとわかりながら、ポツダム宣言の受け入れを遅らしてしまい、沖縄を捨て石に使ったというのであった。

 沖縄が捨て石作戦に利用されていたと言う報道には大きな衝撃を受けたのだが、その特番を全編にわたりナレーションをつとめていたのがRBCの新屋敷二幸さんであった。落ち着いた声の持ち主だった。最近は重みのある報道にであうことが少なくなってきたような感じがする。







 
 
 
 

   

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2006年12月13日

沖縄の福祉の母、島マス先生の偉さ

*中部地区老連副会長の島マス先生の偉

 かつて 中部地域で福祉のリーダーと言えば、 沖縄市胡屋にお住まいの島マス先生であった。
 私が初めて先生と出会ったのは長年中部地区の老人クラブ連合会の副会長を勤めておられた時期だった。毎年の地区老連大会で挨拶をなさっていたが、マス先生が登壇し演説するや否や、がやがやしていた会場は突然静かになり、みな耳をそばめて一言ももらさず聞き入っているのであった。

 私はこんなすばらしいリーダーは見たことがなかった、その時やはり沖縄の老人はすばらしいと感激したのであった。当時の県老連会長又吉康林先生と同格以上の超人気老人がマス先生だった。

 私も偶然マス先生と知り合いになったが、幸い いつもかわいがってもらった。

 歴史的に組織運動が盛り上がる時には、必ずすばらしい人望の厚い統率力のあるリーダーが現れているようです。マス先生は沖縄の遅れていた老人福祉の向上問題や同時に県内のあらゆる福祉問題にかかわった人でもあります。沖縄福祉の母と云われる所以でもある。

 また、今の沖縄市諸見の老人センターは老人には気軽に入りやすく、親しまれている施設だが、このセンターの建設はマス先生たちが中心となって 建設資金を集め 完成させた老人の手作りの憩いの殿堂である ということあとで知ったのである。老人には最も愛着のある施設である。

 時々 マス先生が沖縄市美里、嘉手納町、読谷村座喜味、北部地区などの老人クラブでの講演がある時に私の車を利用し行ったこともあった。老人年金は自分の為に使いなさい、、、と強調された。
 マス先生のお話はどこでも喜ばれ、帰る予定時間になってももっと講演を聞きたいと言われいつも遅く帰るのであった。このような講演を通して私も大きな勉強になった。

 各地区の高齢者の生き生きとした生き方を学ぶと共に加齢に伴う健康不安、神経痛の痛みなどを直にお聞きする機会もあったので、その後 私は 指圧マッサージ師の国家免許を取りに東京の専門学校に行ったのである。今、振り返ってみると マス先生と出会ったことにより、今の自分の職業があり、マス先生に感謝、感謝である。

 マス先生が病院に入院していると聞き、お見舞い行った。既に体力は消耗され、病床にあった。
 
 マス先生のやせこけた姿を見て、私は自然に涙がとどめもなく流れた。私はこれが最後の別れになるであろう と思い、やさしくゆっくりと身体を指圧マッサージした。マス先生は とても気持ちいいよ と喜んでおられた。
 以前自宅を訪問したときは、健康の為に 竹製のザルに乾燥した薬草を仕分けし、飲んでいると言われていたのに、、、。その後 まもなく 天国に召されたのであった。
 
 私が最も感銘を受けたのは、敗戦直後、戦災孤児たちを自分の家(狭い家)に集め養育したという事実である。その当時皆何もない時代 自分のことで精一杯の時代に である。誰もができることではない。

 これまでマス先生の功績等については、既にマスコミや書物で紹介されているので もっとマス先生の人物像をお知りになりたい方はそれらの出版物をご参考にされたらいいと思う。  

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2006年12月12日

私の出会った老人たち(22)

 *学者タイプの又吉康林県老連会長の想い出
  私が最も印象に残った老人クラブの会長に今は亡き 又吉康林老人 がいた。

 彼は那覇市老人クラブ連合会会長を経て県老連会長に就任した人である。
 時々、お会いしお話を聞く機会もあったが、若輩の私からみても、又吉会長の組織運営能力、統率力は抜群であった。ものごとに対する切り口、発想力も豊かなものを持っていた。特におばーさんたちにはどこに行っても持てた、超人気老人であった。ものすごい物知りであり特に農業、琉球民謡に秀でていた。

 会長退任式の会場でに又吉老人は最後に 自分しか歌えない歌を みんなにご披露してくださった。
 私はその時の模様をビデオに撮影しもっているが 時々見ると やはりすごい老人だった と感動する。
 不思議なことに私のであった歴代の県老連会長は 皆 魅力的な人物が多い 沖縄の誇りだと思う。また、中部地区老連にも更に優れたリーダーたちが活躍していた。人材豊富な沖縄の老人たちである。部外者の私がみた老人たちである。  

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2006年12月11日

私の出会った老人たち(21)

*ばくろー経験者の老人クラブ仲本会長 
 私が健康関係のビジネスを展開していた時期 那覇市老人クラブ連合会会長 又吉康林先生 に初めて」お会いしたのは1978年頃、那覇市老連本部事務所が宮平体育堂の2階にあった頃である。

 その傘下に真嘉比老人クラブがあった。
 私が仲本老人に出会ったときは那覇市真嘉比地区の老人クラブの会長をやっていた。
 話の話題が多彩で とてもおもしろい老人 で老人クラブ仲間からは尊敬されていた。

 当時、このクラブは真嘉比公民館で1ケ月に1回程度の会合(定例会)を開いていた。議題が終わると丸い座になって座り、泡盛をまわし飲みしながら、いつものように雑談がはじまり、会長の独特の話が花咲くという形で推移した。

 仲本会長曰く 「若い頃、ばくろーしていた。やんばる船が出入りする与那原から、多数の馬や牛を購入し、歩いて那覇まで持って行き、売っていた。相当儲かった。楽しかった。云々」と得意げにお話された。その時、私は初めて バクローという職業を知ったのである。とにかく 豪快な老人であった。

 定例会では、女性(おばーさん)たちは 好きな踊りを踊り、年1回開催される市老人大会のアトラクションに向けて練習するのであった。おばーさんたちは大きな大会の会場に出るのが楽しみで一所懸命に練習に余念がなかった。集団演舞、踊りは生き甲斐のひとつだった。

 その当時、老人クラブの主役はおばーさんたちでおじいさんはそばで踊りを鑑賞するというパターンであった。当時の課題は男性老人の参加者が少ないので、いかにクラブ活動におじいさんを参加させるかであった。 まだゲートボールが登場していなかった時期の想い出である。  

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2006年12月09日

かつて琉米文化会館があった、、⑳

  那覇の与儀公園近くに 琉米親善文化会館があった ということを覚えているのだろうか。 
 この会館の場所は 自宅から10分程度の近い距離にあったから、よく利用したのであった。

 *私が中学か高校時代だったか 忘れたが 
 与儀十字路から寄宮十字路に向けて歩いて5分ぐらいの所に、琉米親善文化会館 という施設があった。アメリカの資金で建設された文化施設。沖縄がアメリカに統治されていた頃の体験だ。この建物は今はないが いつ解体されたかは 学生の私は知らなかった。

  この会館は2階建の鉄筋コンクリートづくりの当時としてはクーラーも設置されたモダンな建物、入り口を入ると近くには冷たい飲み物も出るボックスも設置されていた。冷水は無料。夏には子どもたちや大人も 立ち寄り 利用していた。職員は沖縄人、管理者はアメリカ人だった。

 学生の私がこの会館に行く目的は そこに所蔵されている多くの図書を読書すること及び2階ホールで開催される無料のレコード盤による音楽を鑑賞することであった。蓄音機から流されたのはクラシック曲が殆どで私はカルメンや運命などが好きであった。多くの人々が鑑賞に来ていた。 

 そこには アメリカから寄贈された書物が多かった。アメリカの文化の優位性を知った。
 しかし、その中には「 ソ連は大規模な兵器をもっている。危険だ、悪い国だ、だからアメリカは武器を開発し対抗すべし、予算を増やすべし云々」の論調が延々と強調される書物が多かった。
 当時、私はアメリカは世界一強くて豊かな国だと思っていた。それが 何で強いアメリカが そんなにまでして ソ連の脅威を宣伝するのか 逆にソ連という国はアメリカに脅威を与えるぐらい大きな国なのか ということ知ったわけである。
  しかし 学生の私が政治の世界がわかるわけはなかった時代であった。

 少年時代、偶然 近所に無料の図書館があり、読書する機会を与えられたのは本の少ない時代では調法であった。本の魅力、こわさを知ったのは私には大きな収穫であった。

 しかし、この会館の場所は 政治集会が頻繁に開催された与儀公園の近くにあったので、
 日本復帰後もそこにあれば、数万のデモ隊にねらい打ちされ 押しかけられ 焼き討ちに合っていたのではなかろうか と琉球大学時代に推測したことがあった。

 現に沖縄返還協定反対を掲げたデモ隊と機動隊との激しい衝突(放水もあり)がその付近で繰り広げられ、騒乱状態になったこともあった。
 
 当時の沖縄民政府の与儀の琉米文化会館の放棄の判断は賢明であり、難を逃れたと思う。  

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2006年12月04日

沖縄の娯楽、芝居と映画の想い出⑲

  私の少年時代、映画館が多く存在していた那覇に住んでいた為か 映画を見る機会に恵まれていた。
  当時の娯楽の主役はウチナー芝居から 映画へ と変わった。初めのころは東映の時代劇、高校時代には日活映画、洋画をよく観た。

 幼少の頃、親たちは農連市場で仕事終えたのち、近くの 那覇劇場 でウチナー芝居を見るのが楽しみだった。時々私たち兄弟も同行させられた。子どもには芝居の意味がわからなかったが大人には大変人気があった、終わるのはいつも深夜だった。こどもはニーブイカーブイしており、帰る頃にたたき起こされて帰ったのであった。

 その劇場は古い木造2階建て、夏は扇風機が数台取り付けられフル回転しても人の熱気に消されむし暑い、また冬には冷たい北風が吹き込み寒い、その中で 人々は 熱心に観戦していた。木造の平和劇場、あけぼの劇場も同様に設備はまだ完備されていない時代だった。
 また 市内の多くの小学校の学芸会も ここで おこなわれ その時期になると 午前中は A小学校が利用し 午後からはB小学校が使う というように 頻繁に活用された時期もあった。 

 那覇劇場の閉鎖後 ウチナー芝居は 寄宮の あけぼの劇場、沖映本館で上映されたが、その後そこも廃業に追い込まれた。私の少年時代には芝居は一部の人たちには熱狂的に迎えられたが、沖縄社会全体の評価は著しく低かった。新しい娯楽、映画、テレビの登場や芝居内容のマンネリ化もあったのか 急速に衰退したのであった。しかし、現在評価は高い。昔とは雲泥の差があった。

 幼少の頃最初見た映画館は姉に連れられて 国際通りの木造2階建ての国際劇場、平和劇場(今は廃業)であった。その当時、姉ひとりの入場料金は親からもらったが 自分と弟のお金がないときもあり、その時には 兄弟は大人によりそい、親子みたいなふりをして なにくわぬ顔で 受付係の前を通り抜けたのであった。要するに ヌギバイ して映画を楽しんだのであった。 

 当時の主な映画館は国際通りの大宝館(現在の三越デパート)、神原通りの大洋劇場、歓楽街の桜坂琉映、桜坂オリオン、琉映本館、沖映本館そして洋画専門のグランドオリオン、国映館があった。 私の中学、高校時代は映画の黄金時代だったようで、どの映画館も満員でにぎわっていた。映画は文化だった時代。

 幼少の頃、平和劇場ではストリップもやっていて大人に人気があった。もちろん子どもは入場禁止であった。桜坂琉映では大川橋蔵、中村錦之助、美空ひばり、旗本退屈男の石川右衛門などの時代劇をくいるようにみた。
 桜坂琉映には自宅近くの友人の親父が映画技師として働いていたので、友人が弁当を届けに親父に会いに行くとき、私も同行して行き、ついでに映画を無料で見せてもらった。友に感謝した。当時映画黄金時代だったので 映画技師は貴重な存在で高給取りだったようだ。

 桜坂琉映の映画技師は映画が終了するとフイルムを急いで巻き上げ、それを担当の配達員に渡し男性の配達員は自転車で安里の琉映本館まで急いで正確に配達していた。またそこで上映を終えると桜坂琉映に持ち帰り上映するというシステムであった。

 沖映本館では勝新太郎の座頭市物語や市川雷蔵の大菩薩峠、田宮次郎の黒シリーズ作品、温泉芸者シリーズの大映、松竹映画が流行していた。印象に残る楽しい映像が多かった。しかし、超人気俳優の市川雷蔵、田宮次郎が自殺したとの報道には大きな衝撃を受けた。

 また、中学時代、大洋劇場では日活映画の小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎のアクション映画更に吉永さゆりの青春映画をみた。特に印象に残っている映画は山内賢扮する若い主人公が約束された地位、財産を捨てて、愛する女性に尽くす内容の映画には感動した。有望株の赤木圭一郎の突然の交通事故死にも衝撃を受けた。

 映画終了が夜になり、自宅に帰る途中に 神原通り街には まだ 赤線地帯があり、そこを通過すると 女性らから 呼びかけられ 引ぱられそうになり ビックリして 逃げたこともあった。ネオン街の桜坂界隈も同様なことがあった。当時 映画館近くには人通りの多い歓楽街が繁栄していた。

 ある日、大宝劇場で火災があった。その時に偶然わたしたち家族もその場で映画見ていた。突然の火事だとの大声で、館内は騒然、パニックになった。映画館の前、国際通りは多くの消防車、野次馬でゴッタ返していた。家族はチリチリばらばらになり、心配したが幸いにもみな無事だった。
 
 大宝館では 題名「私は貝になりたい」(フランキー堺主演)とか 死の商人(武器商人を告発する内容)の映画が心に残っている。戦後10年-15年ごろはまだ反戦映画も好評で、共感をもって みんな真剣なまなざしで見ていた。平和通り、平和会館の名称も 過酷な戦争を体験し 二度と戦争はごめんだ との反省から名付けられた と後年知った。

 また、小学校時代、文部省推薦の教育番組の映画もあり、授業を休み、そろって見学したこともあった。そういえば高校時代 担任の国語の先生は 新聞の映画広告の中で 映画の批評、解説文を名前入りで紹介していた。当時那覇高校の国語の先生の存在は大きかったのであった。

 また、国映館、グランドオリオンでは壮大な歴史スペクタル ベンハー、クレオパトラ、天地創造、又有名なウエストサイド物語、エルビス・プレスリーの映画には圧倒された。

 私の少年時代、沖縄ではウチナーグチ(方言)撲滅運動が展開され標準語が奨励さていた時代だった。今当時のことを振り返ってみると 日本映画は戦後の暗い世相を覆し、社会に大きな夢を与えると同時に沖縄人をより日本に同化させる役割も果たしたと思う。

 沖縄の人々は日本映画を通して映画のおもろしさを知り、楽しく日本語を習得したのであった。映画の想い出は尽きない。いい時代だった。

   

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2006年12月02日

海外に脱出した姉と残された家族⑱

 *貧困時代のきずあと

 私の家の少年期の生活はきびしかったが、私に関して言えば 極端な不自由なくらしではなかった
と思う。厳しさを味わったのは、2つ年上の姉で学校の授業料納入時期には払えない為に恥かしかったのか 1時限遅刻して登校するようであった。私はまだ低学年だったから、そんなに気にかけず、普段通り登校したのであった。姉は頭はよかった、県内ではトップの那覇高校に入学し、英語も上手だった。英語を学んだのは多分厳しい沖縄のつらい生活から脱出するためだったのではないかと私は思った。高校卒業するや否やアメリカ人と仲良くなり、結婚しアメリカに移住し現在に至っている。

 姉のようにアメリカ人と結婚した女性は多かった。その選択がよかったのかどうか私には結論がだせない。ともあれ、沖縄の女性たちよ、アメリカで幸せに暮らしてほしいと思う。

 姉は言う:狭いこせこせした沖縄に住むより、アメリカにきなさい、人生が変わるからと、、。

 でも、私は長男だから母を守らなければいけないと言う意識が強かったから、県外へ行けなかった。今でも沖縄に住んでいる。

 大学受験の時には殆どの友人は国費、自費の留学助成制度を利用し、本土の国立大学に入学したが私の場合は県外に行けないと悟り、定員数名の東京大学の哲学科に受験した。当然不合格になり、地元の琉球大学に入学したのであった。

 *バイト等で親孝行

 中学時代になると少しでも家計の足しになればと思い、親戚の経営する洗濯屋や母の知人のおもちゃ店での三輪車の組み立てのアルバイトし、俸給はすべて家庭に入れた。もちろん、私の手元には1円も残らなかった。

 *自宅での黒板づくりとバイタリティの母

 幼少の頃から、近所の家具屋さん、仏壇屋さんの現場を見る機会があったためか、のこぎりでベニヤや木を切るのが器用だった。どこで覚えたかわからないが母は黒板づくりをしたのであった。当然、私も手伝わされた。夜遅くまで母と黒板づくりした。1枚のベニヤ板から4枚の黒板ができた。枠をつくり、パテを何回も刷り込み、表面を滑らかにし3回程度黒いペンキを塗り乾かすという作業だった。
 完成すると母の言いつけで 遠い所(嘉手納町、与那城村、与那原町)の文房具店までバスに一人で乗って配達したこともあった。1回で両脇に黒板数枚を抱えて歩くのはつらかった。でも、中学生の自分が作った黒板が売れるのは不思議でならなかった。
 
 その後、母はペンキ屋の仕事をはじめ、あっちこっちの家のペンキ塗りも手伝わされたこともあった。その後も母は多様な仕事にチャレンジしたようだった。

 その中には、某資産家の仕事をしたがしかし半年近くも一銭も支給しなかった。その時期我が家は更に困窮に陥ったのであった。母は後年、その当時の事情を話すことがあった。「その時期にはつらかった。金持ちは非情だ。仕事のノウハウを勉強するために我慢した。必ずあとでプラスにしなければならないと思ったからだと、、、。」

 最後は不動産の斡旋業で少しの財を残した、生粋の大正生まれのナーファンチューだった。

 *空爆で那覇の街は廃墟と化した

 那覇の街は1945年10月10日のアメリカの空爆で破壊され、母の若狭の瓦屋の家、広い屋敷も跡形もなく消滅した。
 ところが自分たちの家の門柱墓は破壊されず、昔のまま残っていたのであった。
 「これは不思議だった」と大人は話していた。空爆時、米軍の飛行士も空からみて、そこは貴重な独特な墓地群だと思い避けたのではないかと物心ついたときに私は推測した。

 那覇の街は完全に破壊されたから、ゼロからの出発だったと言う。みな貧乏だった。みな貧困から脱出しようとがむしゃらに働いた。だからと言って貧乏だから、悲観する気持ちはなく、心は希望を抱いていたのであった。  

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2006年12月01日

門柱墓は繁華街国際通りの裏手⑰

 私の幼少の頃、私たちの墓は亀甲墓の一群の中にあり、その風景は悠久の歴史の長さを感じさせるようであった。墓群は静かなたたずまいの中に威厳を保っていた。

 それら墓群の場所は現在の繁華街国際大通り(牧志)のすぐ裏手にあたり、現在の緑ケ丘公園の中にあった。
 遠い昔、祖先が墓を建設したときは、その一帯は緑豊かな閑散としたところであったろう。

 *おいしかった 甘い野いちご

 牧志の多くの墓の周囲には野いちごがいっぱい咲いており、年に1回のお墓参りの時期になると
墓の周囲には野いちご実が採れるのであった。甘い香りが漂うから誰でも気づいた。子どもたちは早速野いちごを探しだし食べたのである。最高の楽しみであった。

 その当時、子どもながら考えた。
 野いちごを植えたのはここに来ればおいしいのが食べられるよと 子どもを誘い出す祖先の知恵かと思ったものである。

 私たちの墓は祖先が同じ血族の親類で構成された門柱墓(亀甲墓)。
 その当時の墓は大きく敷地も広く、見応えがあった。

 親族は清明祭の時期になると30-70名ほど集まった。手作りの重箱料理でお供えし先祖にウコーを炊き、一族の繁栄を祈るのであった。その後そこでピクニック気分で重箱料理をおいしく食べつつ、交流を図っていたのであった。沖縄人は墓に対しては全く暗いイメージを抱いていない。

 その後、都市化の波が押し寄せ、その地域の墓群は、すべて立ち退きを余儀なくされた。その一帯の墓から、年代物の骨壺が多数見つかったと後年母から聞かされた。一族はその墓の立ち退き後、同じ門柱墓をつくらず、それぞれの家族でそれぞれの独立した墓を別々の場所に造り、現在に至っている。核家族化の時代になったのである。

 ただ残念なのは門柱墓の撤去で かつての親族の固い結束力が失われ、ナーハイバイしてしまったことだ。

 もし、そのまま昔からの亀甲墓群をそこに残していたら、貴重な文化遺産になり、隣の国際通りと連携し、観光名所になっていたのではなかろうかと思う。

   

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2006年11月29日

与儀市場商店街のあずき豆⑯

*与儀市場の1品だけの店

 与儀十字路から開南大通りに向けて歩くと まもなく 左側の路地を入ると
 乗用車1台が通れるぐらいの道幅の細長い商店街があります。そこが与儀市場です。

 むかしから、その道幅は変化していない為か 地元民以外には知られていないようです。
  ここは零細業者が多いのだが、今まで行政(税金投入)の支援なしで成立してだけでも
 偉い と思います。拍手ものです。
 
 華やかさはない 市場であっても、地元及び周辺の人たちには日常の生活物資を調達する重要な市場には変わりはないようです。

 振り返って見ると、私の中学、高校時代には市場は買い物客でにぎわっていた。私は1週間に2-3回は目当てのお店(看板なし)で買い物していました。この店は1品だけで商売していた。

 あずき豆を煮て、つぶして、弁当箱に入れて売っていた。私はそのあずき豆が炊きあがるのを待って、真っ先に買いに出かけた。行列のできる店ですぐ売り切れるからであった。早い者勝ちだった。できたての豆(芋をつぶしたウムニーみたいのもの)は、香りもよく とてもおいしかった。

 作るおばさんによると、その品を完成するまでは 長い時間がかかり、手間暇かかる。しかし、売る値段が安いので経営的にはきびしいと嘆いていた。また、冬は神経痛で重い鍋を移動したりするのがつらいとはなしていた。
 
 高校時代になると その店は廃業した。引き継ぐひとがいなかったという。
 大人になってからも特に芋を食べる時には今でも時々その店のおばさんとあずき豆を想い出すことがある。  

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2006年11月28日

飛び込みでけが⑮

那覇市立 上の山中学校時代の体験
 *マンモス校
 私の1年生当時には1組50人ー55人の生徒数がいて、18学級あった。机と机の幅は2人並ぶとぶつかる狭さ。生徒の数が多いと学校のクラスの雰囲気は明るい。自然に競争心が出てくるがみなよく仲良くしていたようにみえた。

 *飛び込み直後 額、から血が目に入る、、、。
 夏の放課後は親友3-5名で波の上ビーチで泳ぐのが日課であった。学校からビーチまでは歩いて15分の距離。満潮時になると堤防の高い所からよく飛び込みした。いつものように私は堤防(高さ3メートルぐらい)から飛び込んだ。
 海からあがってきたら、友達が私の顔をみてびっくりし、 血がでているがだいじょうぶか といわれた。
 
 そのとき私はとっさに左手で額の所を触ってみたら、なま暖かい血が流れてくるがわかった。顔全体が血だらけになった。その時、何も痛みを感じなかったが鼻先、額の皮膚がえぐりとられ、そこから大量の血が流れているのだった。血が目に入り、前が見えなくなったから、心配しだし、直ちに病院に直行、手当をしてもらい、事なきをえたのであった。

 原因は飛び込んだ瞬間に引き潮になり水位がさがり、顔面を海底の岩に強くこっすったためであった。次からは、海底の地形、深さをあらかじめ調べてから飛び込んだのであった。海を侮るなかれ である。  

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2006年11月27日

波の上ビーチの想い出⑭

 少年時代の夏。50年前も波の上は市民に人気のある海水浴場だった。

 家族づれでにぎわっていた、きれいな海だ。その当時の沖縄人には有料ビーチがあるとは思わなかった。海はみんなのもの。もちろん、波の上ビーチも無料であった。

 当時自家用車も少ない時代。私たちは自宅近くの開南バス停からバスに乗って波の上の西武門バス停で降りる。あとは歩いていく。波の上宮の大きな門の側を通り、海岸に行った。お店もずらり並んで営業していた。その地域内には同級生の家もあった。まだ波の上自動車学校はなかった。

 また、海岸沿いには沖合に向かってトユーバイホーで作った木造の店も多数設置され、ビヤガーデンもあり中にはジュークボックスを設置しムード音楽を流していた。若いカップル、大人に人気があった。
 子どもの私たちは満潮時になるとそれらの店はちょうど飛び込み台の高さになり、そこから飛び込みして遊んだのであった。また、沖合には戦争で撃沈された船の残骸も放置されていたが、その船からもよく飛び込みし遊んだものだ。また、時々護国神社の海沿いの絶壁から満潮時に飛び込む強者もいた。みな感心し拍手喝采で応えたのであった。

 衣服類は海岸の岩の所に置いた。もちろんだれも放置された衣服を盗むひとはいなかった。誰もが安心して泳いだ。その当時、波打ち際には約25メートルの長さのコンクリート構造のプールがあった。そのプールは深かった。小学生が泳ぐには危険であった。子どもは浮き輪を使い泳いだ。

 多くは海で泳ぎ、暗くなるまで遊んだのであった。浅い場所でももよりどりみどりの多数の熱帯魚が目の前で泳いでおり、小さな手ですばやく捕獲し楽しんだ。泳いだあとには、手作りのおにぎりを一気に食べた、おなかすかした直後なのでとてもおいしかった。

 多分、多くの人はかつて波の上に 熱帯魚が多く泳いでいたこと、プールや海上店舗、その域内に民家が存在していたことを忘れているのではなかろうか。私にとっては波の上はなつかしい想い出の海岸である。  続きを読む

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2006年11月18日

農連市場に乾杯⑬

 私にとって、開南の農連市場は少年期の大切な想い出の場所である。昭和26年ごろ以後の話である。

 *4ケ所の入り口がある農連市場
 農連市場は那覇の庶民の台所であり、牧志公設市場に並ぶ活気のある市場だった。むしろ、店舗が整備された牧志公設市場より、農連市場の方が農家の出入りも多く、農作物も山積みされもっも活気があったように子どもながら、そう思ったのであった。農連市場は南風原、豊見城、大里村など南部地区の人々が出入りする与儀十字路から開南バス停の中間地点にあり交通の要所にある。
 南部の人は農連市場に農作物を搬入し売ったお金で帰りに新栄通り、平和通りで新品の生活用品を購入するようだった。車のない時代、重たいゴザ、ふとんを両脇に抱え込み、荷物を頭の上にのせ、開南バス停、与儀のバス停まで歩く姿がよく見受けられた。

 *狭い店舗
 その一角に祖母と母が米や豆など穀物を小売りしていた。学校帰りは毎日そこに立ちより、商売するのを見て育った。大根、葉野菜、キャベツ、パイン、りんご、みかんなどを積んだリヤカー、トラックが所狭しと往来、足の踏み場もないほど混雑を極めていた。豆腐屋さん、肉屋、さかなやさん、花屋さん、かんぶつやさん、お茶屋さん、多種多様な店があり、見るだけでも楽しみであった。

 *祖母のマチヤグワァー 
 自営業の店舗と言えば聞こえはいいのだが今風の店の構えではなく、ただ単に地面にたらい2個ぐらいを広げただけの空間。もちろん、看板もなく名前もない。今風の店とは異なるが、しかし、わたしたち家族にとっては唯一の生活収入源であり、誇れる空間であった。

 *米販売 一筋の人生
 夏の西日は強烈できびしく、まぶしい。また大雨でも降ろうものならその日は開店休業状態だ。
 明治生まれの祖母は15歳のときから商売をはじめ、82歳までそこで働き、わたしたちを育てくれた。初めは祖母ひとりできりもりしていたが、あとから母が手伝うようになった。ナハーンチュの祖母は一人の人間として、だれひとり迷惑かけず、ひたすら商い一筋をつらぬき、94歳まで長生きした。祖母のことを農連市場界隈では シラガ(白髪)のマンチィーウンメーと呼んだ。名物オバーだった。

 *暗算ピカイチの祖母
 さて、市場に米、豆を売りに常連の農家の人が来ると、買い取りの交渉がはじまる。その当時の相場で購入するようだった。購入した米などを一般の人にはかり売りするという生業である。
 時々売る方、買う方の値段が折り合わないときは、大変な状況となる。値段が決まるまで言い争い、相当な時間を費やす。根負けした方がおれ、勝負はつくのであった。そばで見ている子どもにはまるで大げんかしているようにみえ、心臓がちじむようであった。でも、多くの取引は祖母の方に部があるように見えた。
 お金の計算はすべて、暗算でそろばんは使用せず、的確に処理した。まだ、この世に電卓もこの世に登場してなかった時代。祖母は暗算が得意、プロだったのである。
 
 *田舎に仕入れに行く
 幼少の頃、祖母は南部地区の農家までバスに乗り、米を仕入れにでかける時もあり、私も同行させられ、購入した米袋をもたされたこともあった。
 大人になり、南部地区の公民館で高齢者対象の指圧マッサージを講演したときに、参加した某高齢者は「農連市場で昔、祖母のお世話になった、やさしい人だった、あなたはお孫さんでしたか。」と感謝されたこともあり、祖母の生き方に感動したのであった。
 
 *帰りの光景
 親たちは暗くなる夜まで働き、家族そろって帰るのであった。売り上げが少ない日の帰りの足取りは重い、親たちは口数も少なくなりやや頭をうなだれて黙々と帰るのである。逆に売り上げが多かった日には、親たちは今日ははよかった、この商売してよかった等と明るい声が飛び交うのであった。その時こどもたちもにぎやかに会話し、ルンルン気分で帰るのであった。
 帰りの途中、自宅近くの広場には電灯の明かりが灯り、多くの人が集まり、大声でしゃべっている光景に遭遇したが親たちはまっすぐに家路を急いだのであった。後年大人になってわかったのだが、演説していたのは有名な瀬長亀次郎だったのである。その当時の自宅は開南大通りのやや与儀よりの地点にあり、今の開南薬局の裏にあった。

 *コンコロヤをつくる
 幼いころの母の口癖は、今は貧しくてできないが将来必ず コンコロヤ(鉄筋コンクリート建ての家)をつくるんだ と言っていたが、必死に働き、4つもコンクリート建物を造った。息子からみても 大した女性だと思う。おかげで、残された子どもたちはその遺産をもらったが、しかし、次は母の財産をどう維持、再生産するかが試されることになった。
 
 *大衆浴場
 市場内に 開南湯 という大衆浴場があり、私たち家族はその風呂場を利用していた。
 その当時、プロパンガスの瞬間湯沸かし器を設置しているは家はほとんどなく、殆どの家庭ではその浴場を利用していた。その当時、那覇市内には数多くの浴場があった。母は3名の幼い子どもたち(小学校にあがらない時期)を一人ずつ 芋を洗うように すばやく石けんをかけ洗うのである。また、頭を洗うときにシャンプーが目に入り泣いてもお構いなしで洗うのであった。入浴後、時々母は 一緒に走ろう、競争しようと言い、私たちは全力疾走で家まで走るのであったが、母には勝てなかった。中学校時代には親友らと那覇市内の殆どの浴場を探しだし通ったものである。楽しかった浴場回りだった。しかし、現在、市内には昔からの浴場は廃業になり、残っていないと聞く。

 振り返ってみるとその当時風呂場はその地域の人々の情報交換の重要な場であったが、廃業によりコミニケーションの場が消失し、地域共同体の崩壊が加速したのではないかと思う。

 *大衆食堂
 与儀から開南に向けた農連市場の入り口に、木造2階建ての井筒屋という、名称の大衆食堂があり、いつも人でごったがえしていた。その店のソバとおすし更にぜんざいをよく食べた。格別においしかった。その店には遠い所からもわざわざ食べに来る常連客もいた。また、さかな、肉、野菜専門のそうざいやさんも人気があり、たくさん食べた。もう一度、食べれたらぁと思う。

 *看板の文字が読めた
 市場の入り口に多くの看板が貼られていたが、幼少のころ、その文字が読めなく、いつもきになっていた。小学校に入り、勉強してから、突然その看板の文字が読めたのである。その文字が読めたときは大変うれしかった。その看板は長方形でつやのある白い看板だった、「カクイワタ」と打たれていたのであった。

 *開南のうなぎ専業のいとこ
 わたしたち兄弟は正月になるとお年玉をもらいに真っ先に開南(開南紙店の隣)のいとこの家に行く。おばさんはいつも快くむかえてくれて、お年玉を気持ちよく くれた。わたしたち兄弟は大変喜び感謝した。いとこは牧志公設市場内で長年うなぎを専門に販売し繁盛していた。そのウナギはすべて県内の海でおじいさん(名前:ターリー)がひとりでとってきて、売っていたのである。天然うなぎだ。

*友人
そのいとこの隣には私の那覇高校生時代の同級生(空手クラブ部員)、また姉の同級生が住んでいた。彼の家は新栄通りで化粧品販売で生計を立てていた。彼の親父は後年知ることになるがラジオ番組の方言ニュースで有名な仲井真元楷氏であり、方言辞典を編集した著名人であった。また、その家の息子は後年大田昌秀沖縄県時代に副知事になった。

 
 *市場全体の秩序
 市場ではマクトュー、マットゥーバ(正直者)な人でなければ商いは繁盛しなかった。ずるがしこい商売人はいなかった。皆必死に商いし、生き抜いたのだった。その当時、人々は、悪質な人からはものを買わなかったし、避ける傾向があった。悪いうわさはすぐひろがるせまい空間なので、みなまじめに働いたのであった。
 
 *初めてのアメリカの兵隊
 幼少のころのおぼろげな記憶に、与儀十字路、開南大通りに初めてアメリカの兵隊たちが馬に乗って行進し、チューインガムやチョコレートを馬の上からばらまいていた。沿道の子どもたちは無邪気に拾っていたのであった。わたしは小さいから見ているだけだった。
 
 *元気をくれた市場
 とにかく、農連市場は早朝から人の出入りが多く、いつも活気に満ちあふれていた。ここに来れば、いやおうなく元気になった。落ち込む雰囲気ではないのである。いつの間にか、わたしはその雰囲気が好きになっていたのである。

 *農連市場よ、ありがとう
 わたしたち家族の生活を維持させ人生を楽しませた農連市場に乾杯である。私たち家族はそこを踏み台にしてその後、飛躍したのであった。時代の変化(車社会の現代)に取り残されたかのように見える農連市場よ。知恵をしぼり、よみがえってほしい。わがふるさと農連市場よ、永遠なれ。  

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2006年11月17日

小学校時代の記憶⑫坂道での競争

 日頃の遊び場は自宅(現在の樋川)近くの坂道だった。約4メートルの道幅。その坂道でわたしたち子どもは三輪車に乗って遊んだが次はよりスピードが出る手作りの乗り物を作り、お互い早さを競いあった。
 
 坂の上から下に向かって転がす遊びである。その乗り物は木製のレーシングカーみたいのもの。前に2本の車輪、後ろに2本の車輪。前輪の細長い板に左右の足を固定、左右のひもでバランスを調整し、走る遊びである。途中からすごいスピードがでるのでブレーキを作り調整した。

 風を切って走るので気分爽快だった。しかし、ガラガラと雑音をだした。時々その騒音を嫌った坂下の家のおじいさん(農連市場入り口近くのサトウ靴店)にわたしたちは捕まえられひどくたたかれたこともあった。いかんせん、子どもが悪いのでなにも言えなかった。
 
 でも、しかれても私たちはひるまずまた滑ったのであった。楽しかった時期だった。もちろん、車の通行量が少ない時代だったから、その遊びができたのである。  

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2006年11月15日

小学校時代の記憶⑪私の原風景

 大人になり、少年期に過ごした地域から移転した私。懐かしくなり、地元に立ち寄り昔懐かしい道を思い出してみた。
 自宅から学校への道順をたどってみたら、全く風景が変わっていた、昔の面影を見つけ出すことができなくて、一抹のさびしさを覚えたのであった。
 頭の中では覚えているつもりだが、現在その道はなくなっている。あの頃の懐かしい地域の風景は消失しているから、今では空想し歩くしかない。毎日兄弟、友達と小さな足で曲がりくねった道、大きな木が林立した道を歩いた。途中迷路のようなコースもあった。夏は蝉のうるさいぐらいの声を聴きながら、米軍基地のヘンスのそばを通って、登校したことを。

 今の与儀公園あたりは、私たち子どもの遊び場だった。緑がいっぱいの地域だった。
 当時の主席公舎周辺は、県の農業試験場があり、私たちは時々試験場のかいこ飼育場所に行き、絹糸ができる様子を見学したりした。しかし、その当時の私たち子どものねらいはその周辺にうえられているナンデンシギーの木々から実をとり、食べることだった。よくおいしく食べ空腹をみたしたのであった。また、与儀十字路近くには、馬小屋あり、鍛冶屋あり、小さなお店や古びた旅館あり、にぎやかな地域だった。鍛冶屋で荷車の丸い輪の取り付け、馬のひづめを作る様子をまた、馬小屋では馬にひづめを瞬時にとりつけるのをみたり、時間をすごしたのであった。しかし、まもなくその地域は立ち退きになり、住民は抵抗しつも退去した。ぜんやい屋の人は立ち退きするとき、途方にくれ、すごく泣いていた のが今も印象に残っている。

 中学時代、その付近はまだ農地があり、野放しにされていた馬を勝手に乗り回したり遊んだものだ。私の原風景は心の中にあり、ときどき懐かしく思う。いったいみなどこにいったのか。幸せに暮らしているのだろうか と、、、。
     

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